「好き」という言葉は便利だ。軽く使えるし、共通点をつくる入口にもなる。
けれど実際には、その中身はかなりバラバラだ。
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ある人は毎週出演番組を追い、ライブやグッズ情報も欠かさずチェックする。
別の人は楽曲だけが好きで、グループ全体には強い関心がない。
また別の人は、話題として知っている程度で「なんとなく好き」と言うこともある。
同じ「好き」という一言で括られているのに、その温度はまったく違う。
問題は、その違いがしばしば無視されることだ。
同じ対象を「好き」と言った瞬間、相手から「当然これも見ているはず」「当然これも共有できるはず」という期待が発生することがある。
その期待に応えられないと、わずかにがっかりされたような空気が流れる。
その瞬間、こちらは小さな違和感を覚え、モヤモヤとする。
――私の「好き」も、ちゃんと「好き」なんだよ?
本来、「好き」はもっと緩やかな言葉のはずだ。
入口は共通でも、距離の取り方や楽しみ方はそれぞれ違っていい。
それなのに、同じ熱量で語ることが前提のように扱われると、会話は一気に窮屈になる。
好きであることが、いつの間にか“同じテンションで参加する義務”に変わってしまうからだ。
この違和感の正体は、共感のズレというより「好きの多様性が許容されないこと」なのかもしれない。
好きは、もっと個別で、もっとばらばらでいいはずだ。

